環境をシステムとして対象化するときには、その環境が特に地球環境である場合、細胞や実験動物を対象とする場合には無視しうると考えられてきた一回性の問題が前面に出てくる点が、古典的な科学の前提とは異なる点であることはすでに述べた。本当は、実験室内で相手にする細胞だって実験動物だって、いかなる対象は、今現在の地球という環境の中で進行する決して繰り返すことのない一方向の時間の矢の中に含まれているため、厳密な意味での繰り返しというのはないのだと考えられる。しかし近似的には繰り返し発生する事象として捉えてよいと考えられる。しかし、地球環境、地域環境を対象にするとき、無視できない問題となる。そもそも複製を作れないからである。対象は一個しかなく、系と系外とを切り離すことができない。
そのため、細胞や生物を対象として、その対象を一度分解して、要素にわけ、要素ごとの機能を個別に明らかにし、その上で、要素同士の関係性がどういう「ことがら」を生み出しているのか、ということを再度総合化により考察する、というデカルト的な手法の拡張(デカルトはその著書の中で統合というところまで実際には言及している)としてのシステム論をそのままでは適用することができない。ただし、現実には、環境研究の歴史を振り返ってみると、流域を構成する森林、農地、都市などの要素ごとに区分し、それぞれの要素が水・物質動態・生態系という側面からどのような特性を持っているのかということを蓄積してきており、それなりに不都合なく知見の集積を果たしてきていると考えられる。つまり、流域という単位自体は、生命の一個体というほど強くひとつの生命体としての単位を構成はしていないと考えられる。
むしろ生物の研究、より具体的には、遺伝子的研究との一番の大きな違いは、ノックアウトマウスを作ることができないという点であろうか。つまり、流域を構成するある要素を意図的に除去することにより、その要素が流域の中で果たしている役割を実際に検証する、ということは不可能であるし、意味もないという点である。もちろん、流域の一部、たとえば、森林の伐採方法を隣接する小流域間で変えて、流出のパターンの相違を明らかにする、などの人為的な環境操作を部分的には行うことができるし、いままでにもこういった手法により優れた知見が得られてきた。しかし、部分的に流域を取り除くことは不可能だし、そうすることには意味がないだろう。
そして、もうひとつ重大な問題がある。それは、人間という存在、そして、その一要素としての自分が、地域あるいは地球という対象の中には含まれる点である。もちろん、ひとまずは、自分と地域あるいは地球とを切り離して、完全に自身の外部にあるかのように客体化して、あたかも自分は対象の外にいるかのように、対象を観察することはできる。また、実際の調査の場面においても対象に働きかけ、対象からサンプルを採取し、そして分析をするという点においては特に不都合はない。しかし、もし流域内の人間による活動の管理と制御ということに関わる問題を議論するときには、主体としての人間をどのように取り扱うかということは重要な問題となる。