違うは同じ、同じは違う?

少し認識論的な話が続きますが、違いをみつけるということは、裏返すと、同時に同じを見つけるということでもあります。専門的にはいろいろな研究があるのだと思うのですが、論理的に考えていくだけでも、結構いろいろなことがわかります。また細かく格子状に区切られたある領域を考えて、そのひとつひとつの格子が黒から白の間の階調で塗分けられているとしましょう。塗分け方は、領域の中心から同心円状に徐々に黒から白に向かって色が変わっていくように塗られているとしましょう。そのとき、ある同心円上の線を境界として、外側と内側とを区別し、内側を黒丸、外側を背景と呼んであげれば、ひとつの図形が情報として認識されることになるわけです。しかし、私たちは、知っています。内側も、細かく見れば違う色だと。つまり、違うにも関わらず、内側は同質の領域で「同じ」とみなすということが、同時に、内と外の「違い」を作り出す、ということになるわけです。対象を見ているときの見えの細かさが変わっても、まったく同質の仕組みが働くものと考えられます。しかし、細かい方向に分割をしていけばいくほど、また、新たな同質と異質があらわれ、というように、どんどん細かくなっていく一方のようにも想像されます。素粒子の下にもさらにあらたな単位が見えてくるのかもしれません。しかし、地球環境を考えたり、人間の活動を考えたりするときに、微細なレベルにまで還元していくことは、あまり、有効な認識法とも思えません。ですから、なんでもかんでも小さな要素に還元してというような原理主義的姿勢よりも、その見え方(解像度)で対象を見ることで得られる考察の目的に対する有効性ということで判断をしたほうが気楽だし、生産的なような気がします。話がそれましたが、同じが違うを生み出し、違いが同じを生み出す、ということは原理的な仕組みとして認識しておくとよいように思います。そして、わすれてならないのは、やはり、difference what makes a differenceです。必ず情報を認識する主体抜きに情報を所与のものとして考えないほうがよいということです。